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第10話第12話

第11話『おかあさんの手紙』

 三千里はタイトルと内容が必ずしも一致しない回がたまにありますが、この回もその中の1つでしょう。いえ、アンナの手紙の話しは出てきますし、僅か2話前のマルコのジェノバで待つという決意が崩れる、シリーズの構成的には重要な手紙なのではあります。しかし、この回で観客の目を大きくひき、印象に残るであろうエピソードは、フィオリーナの操り人形と赤い壁でしょう。赤い壁とは何か?それはこの後語ります。

 前回で非常に重い風邪をひいていた、コンチエッタとペッピーノですが、この回では時間が経過しすっかり良くなっています。で、ベッドの上で所持金を数えるペッピーノですが、ここで相変わらずのペッピーノらしさが見れます。フィオリーナが渡されたお金を、薬代として払ってしまった事に、怒るのです。どうやら診療所の事務局長であるピエトロは、お金は良いと言っていたみたいですが、フィオリーナは払ったようです。当然ですよね。それを怒るペッピーノの姿は、到底大人とは呼べません。『ワシはケチで言っているんじゃない』とほざくペッピーノですが、これは大嘘です。ペッピーノのこの目先の利益に弱い性格は、この後アルゼンチンで、トラブルを巻き込まれたりしますから。

 金が無い、金が無いとぼやくペッピーノの言葉を受けて、フィオリーナは人形劇を病気の父と姉の代わりにやり、稼いでくる事を決意します。今回のメインの話しです。ここでのマルコとフィオリーナの心の交流が実に丁寧で良いのです。フィオリーナとマルコは、シリーズを通して強い心の絆で結ばれていますが、その理由の1つがこの回で存分に描かれています。人間の心は目に見えません。ですからアニメに関わらず、映像作品ではこういう心の動きは、表現が難しい物だと言えるでしょう。実際、多くのアニメで仲のいい男女は良く登場しますが、彼等が心が惹かれ合ったている理由は、上手く表現されていない事もしばしばです。このアニメでは表現が困難な描写こそ、高畑監督が得意とする物なのです。

図1、あめ玉で遊ぶアメデオ 早速その描写について書きたいのですが、ちょっとだけ。いつものように家に帰ってくるマルコですが、ここでのアメデオとの交流がちょっと面白いです。家に戻ったマルコは、アメデオがいない事に気付き、家の中を探します。落ちは何の事はない、ツボの中で眠っていただけなのですが…心配をかけたアメデオにちょっとだけ怒るマルコですが、すぐに機嫌を直し、あめ玉を与えます。このでのあめ玉で遊ぶアメデオがなかなかユーモラスで楽しいです(図1)。音楽もほのぼのしていて良い感じ。

 マルコの帰宅のシーンは、頻繁に描かれますが、普通に描けば毎回同じ描写をするだけになります。典型的なつまらないワンパターンシーンになってしまうでしょう。ですから、普通のアニメではこういう毎日普通にやるような事は、当然やっている物として、画面でわざわざ描写しないのですが、高畑作品では描かれる事が多いです。『赤毛のアン』なんかは、これを更に発展させた物と言えるでしょう。勿論毎回同じシーンを、ただ流すだけでしたら演出上全く意味のないシーンの羅列になってしまいますが、このようにちょっと違ったエピソードを入れる事によって、変化を付ける事が出来ます。

 人の日常は、毎日必ずやる事があります。これをしっかり描き、かつ微妙に変化を付けワンパターンにしない。理屈で考えれば、日々の日常性を描くのに非常に効果的な方法と言えます。但し、非常に地味な忍耐が必要とされる表現ですよね。こういった地味な積み重ねが出来る高畑監督のメンタリティーが、独特の作品世界を作っていると言えるでしょう。ただ、宮崎駿が苦痛でしょうがなかったというのも、実に理解できますが。(笑)

図2、フィオリーナの舞台となる赤い壁、良い色合いです 話しは戻りまして、フィオリーナの人形劇です。まずは前回のガリバルディの人形劇を行うフィオリーナですが、ペッピーノの心配通り、観客の冷たい態度にフィオリーナは傷つきます。で、すごすごと帰らざるを得ないのですが、『うちへなんか帰れない』といつもと違う方向へ向かいます。この、いつもと違う方向へ向かうというのがミソです。いつもと違う方向に、冒頭で書いた赤い壁があるのです。

 赤い壁が一体何かと言いますと、この作品を作る為に、腰を悪くした小田部洋一以外のメインスタッフは、イタリアとアルゼンチンにロケハンに行っています。この時脚本の深沢一夫は、イタリアで非常に印象的で美しい赤い壁を見つけ、美術監督の椋尾篁にこの壁を舞台にしたシナリオを書くから、色を覚えて欲しいと希望しました。これが、フィオリーナの操り人形の舞台となる、ジェノバの赤い壁なのです。(図2)

 そして、非常に印象的な色合いの赤い壁を、美術スタッフは描いていますが、いつもと違う道にこれがあるというのが、また細かいのです。上にも書きましたが、マルコが下校する同じ道は、それが同じ道であるという事が、レイアウトや美術などで、キチンと描かれています。いつもと同じ道を通るのが日常ならば、いつもと違う舞台装置は、いつもと違う道になければなりません。特殊な舞台の特殊性が際だつのは、いつもの道をマメに描いているからこそなのです。

図3、楽しげに歌い踊る、フィオリーナ ここでマルコは、落ち込むフィオリーナをやる気にさせる為、一生懸命励まします。劣等感の虜となっているフィオリーナの腰は非常に重いのですが、マルコの変幻自在の励ましによって、ようやくその重い腰を上げます。
『舞台なんかいらないよ、この道や広場や街が舞台さ』
『さぁ、歌って』
『君が知ってる歌なら、何だって構やしないよ』
次から次へと、フィオリーナを励ますマルコ。そのマルコに押される形で、フィオリーナは操り人形を使います。初めは恐る恐る、更なるマルコの励ましに後押しされ、2度目は笑顔を顔に浮かべ少し楽しげに(図3)。ほんの短い公演ですが、ここで数人の観客の賞賛を受けます。それに喜ぶというより、とまどいの表情を、まず見せるフィオリーナ。そして、それを祝福するマルコと、共に歌い踊り喜ぶフィオリーナ。フィオリーナの劣等感が解消された瞬間です。

 この後2人は街に戻り、大勢の観客の前で操り人形を披露します。すっかり自信を付けたフィオリーナは、観客の賞賛を受けます。赤い壁の前では、回りに観客がいたのも気付かなかったフィオリーナですが、自信を持ったフィオリーナは視野も広くなります。アメデオが近づいてきたのを目ざとく見つけ、アドリブでアメデオと共演をします。ここでの自信を持ち、楽しげに演ずるフィオリーナが、凄く可愛いのです(図4)。

図4、思わぬ飛び入りに気付くフィオリーナ このエピソードでは、フィオリーナの劣等感とそれの解消、マルコの励ましが、丁寧に描かれています。この描写があるからこそ、今後ずっと描かれる、マルコとフィオリーナと強い絆が非常に説得力を持つのです。フィオリーナがマルコをどれだけ掛け替えのない友人と思っているかが、観客にこれ以上なく伝わってくるのです。要はこの回は、フィオリーナのマルコへの想いを、描く為だけにあると言っても過言ではないでしょう。上にも書きましたが、アニメに登場する男女が、心が惹かれている理由付けとして、これだけ丁寧に描かれている例は、恐らくそうある物ではないでしょう。普通は心惹かれ合っている前提を示し、それが何故であるかは省略しているのが殆どなのではないでしょうか?実に爽やかな感動を、観客に与えてくれるエピソードだと思います。

 こういう内容でタイトルと合わないと、はじめに言いましたけど、ご理解頂けたでしょうか。でもちゃんとありますよ、アンナの手紙の話し。描写としては、フィオリーナの操り人形のエピソードの方が印象的ですが、今後のストーリー展開としては、こちらの方が大切なエピソードです。折角の爽やかな回なのに、アンナの手紙が不穏な空気を漂わせます。何で高畑監督はこんなに質が悪いのでしょう(笑)。素直に感動させてくれればいいのに…

 マルコが家に帰ると、ジーナが臨時の定期船に積まれていたアンナの手紙を届けに来てくれています。その手紙が問題です。アンナが病気で倒れていた事、入っているはずの100リラが入っていない事等、マルコの不安を煽るような手紙に、ほんの2話前にした、ジェノバでアンナを待つというマルコの決心は、大きく揺らぎます。ピエトロは慰めますが、決してマルコの不安は払拭されません。ここでブエノスアイレスにメレリ叔父さんがいるから大丈夫とピエトロが言いますが、これが全て大間違い。このマヌケな叔父の為に、ロッシファミリーは酷い目にあってしますのです(笑)。まぁ、この話しはまだ先の話しですけどね。

 さて今回最大の名シーンですが、沢山の観客の前で、自信を持って楽しげに操り人形の演技をするフィオリーナですね。非常に清々しいシーンでした。

©NIPPON ANIMATION CO.,LTD. 1976

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