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第22話第24話

第23話『もうひとりのおかあさん』

 高畑作品のほとんどには、原作があります。当然、『母をたずねて三千里』もそうです。高畑作品が大好きな私ですが、ほとんどの作品の原作を、読んだことがありません。一応真面目に読んだと言えるのが、『赤毛のアン』位です。勿論、三千里の原作も読んでいなかったのですが、今回のコラムを書くに当たって、資料として必要でしたので、新潮社文庫の物を購入しました。前回私はロスアルテス通りの道順を聞くシーンについて書きましたが、原作を読んで愕然としました。何とこの台詞、原作に登場しているではありませんか。それなのに…いやはや、お恥ずかしい。大変申し訳ありませんでした。やはり、コラムを書くからには原作くらい読んでないといけませんね。

 さて、気を取り直して…日本のTVアニメは、大抵が水増しの苦労をさせられます。なぜなら、TVアニメのほとんどが、マンガを原作にしているからです。例えば、週間少年マンガ雑誌に連載されている人気マンガが、アニメ化されたと考えてみましょう。最近はアニメ化を前提として、連載されるタイアップ作品なども多い様ですが、やはり一般的には人気が出たマンガにアニメ化の話しが来るのだと思います。(アニメ会社にパイプを持っている出版社の方が、アニメ化がされやすいというのもあるでしょうが)つまりはアニメ化がされた時には、いくらかのストックがあります。マンガもアニメも週間ですから、単純に考えるとアニメはマンガに追い付かないように思えますが、そうはなりません。

 週間連載マンガの1回分は、それがストーリーマンガであれば、大抵は20頁位です。TVシリーズのアニメの1回分は、20分くらいです。それぞれの1回分で、表現できるストーリーの量を比較すると、圧倒的にアニメのほうが多いのです。ですから、TVアニメはあっという間に、マンガのストーリーに追いついてしまいます。それを解消する為に、色々な手段が取られています。これは鳥山明の『ドラゴンボール』での話しですが、鳥山明の絵コンテの段階で、東映のアニメスタッフにそれが届けられたそうです。もしかすると、現在人気の『名探偵コナン』等も、同様の手段をとっているのかもしれません。

 しかし、1回に必要とするシナリオのボリュームに、圧倒的差がある以上、いくら原作者とアニメ制作スタッフのパイプを効率化しても、TVアニメ側のシナリオ量不足は解消出来ません。これも『ドラゴンボール』での話しですが、バトルがメインの話しですと、10秒しかもたないという事もあったそうです。そうなると、オリジナルエピソードを作る事によって、シナリオ量を補充する事になります。新たな敵を設けたり、新たな事件を作ったり、そのやり方で、原作者と揉めて放映中止になった作品もあるという噂も、聞いた事があります。

 『母をたずねて三千里』も上記の理由とは別の理由ですが、大幅な水増しを義務付けられた作品です。当作品の原作は、エドモンド・デ・アミーチスの『クオレ』です。この作品は色々な出版社から発行されていますが、その中の1つ新潮社文庫の物を見てみますと、500頁弱のそれなりの量のある作品です。これが全て『母をたずねて三千里』の原作であれば良いのですが、実際は『クオレ』の中の一編『アペニン山脈からアンデス山脈へ』だけでして、これが僅か60頁位しかありません。当然、これで全52話のTVシリーズなど作れるはずがありませんから、キャラクターを大幅に追加したり、エピソードの大幅な追加を、当然行わなければなりませんでした。

 今回の話しも原作の『アペニン山脈からアンデス山脈へ』には無いエピソードですが、ペッピーノ一座のように、スタッフが一から作り上げた物とは違います。『クオレ』の中にある『アペニン山脈からアンデス山脈へ』とは別の一編、『おとうの看護人』を元に作られています。以下にそのあらすじを書きます。

 フランスに出稼ぎに行った父親から、家族に手紙が届きます。イタリアに戻ってきているが、病気になってミラノの病院に入院しているという知らせです。当然家族は心配しますが、母親は小さい病気の娘と乳飲み子を抱えている為、ミラノまで行く事が出来ません。それで、チチッロ少年が父親の看病の為、ミラノに行く事になります。病院で案内された病室でチチッロ少年が見たのは、丹毒で瀕死の状態となっている、昔の面影の欠片も無い父親の姿でした。父親は意識は殆ど無く、息子の事も認識出来ない様でした。チチッロ少年は、父親を懸命に看病します。病状は一進一退でしたが、チチッロ少年の心のこもった看病が実った所為か、父親が僅かながら反応するようになり、チチッロ少年から出ないと薬を飲まないようにもなりました。

 ところがある日の事、病室の外で聞き覚えのある声がします。何とそれは、チチッロ少年の父親の声で、何と今まで父親だと思っていた男は、チチッロ少年の父親ではなかったのです。ずっと病気だった本当の父親は、すっかり良くなって退院するところでして、チチッロ少年と一緒に帰ろうとしました。しかし、チチッロ少年は、ずっと看病していた、自分の父親だと思っていた見も知らない男の事が、どうしても気になって、まだ看病を続けたいので帰れない事を、父親に告げます。チチッロ少年の優しい心に、父親も感激しチチッロ少年を病院に残し、自分の村に先に帰っていきました。それからしばらくして、その男は亡くなりました。しかし、チチッロ少年の懸命の看護が有ったおかげで、男は安らかな最期を迎える事が出来たのでした。

 比較の為、三千里の方のあらすじも書きます。

図1、ぐぇぇぇぇ〜っ!!! 列車に乗り損ねたマルコは、駅員の助言もあり移民局へ向かいます。そして、そこの職員からアンナという女性が行き倒れて、教会の慈善病院に収容されている事を聞かされます。早速教会に向かい、そこでシスターに病室に案内されたマルコですが、ベッドに横たわる女性に思わず『お母さん!』とすがり付いてしまいます。しかし、よく見るとその女性はマルコの母親では有りませんではなく、名前が同じだけの女性でした。。マルコのその姿を見てシスターは、2人が親子で有ると、すっかり勘違いをしてしまいます。そして、うわ言のように、『マルチェッロ』と自分の子供を名を呼びながら苦痛に身をよじる姿を見て、シスターはマルコにアンナを、お母さんと呼んであげるよう促します。マルコはその苦しむ姿に、自分の母親がダブり、アンナをお母さんと呼び、すがりつき涙を流します。

 息子に会えたと安堵した所為か、アンナの今まで高かった熱が下がります。それを喜ぶシスターに、マルコは自分がアンナの息子では無いことを告げます。驚くシスターがどういう事なのかを聞こうとしますが、その時アンナの容態が急変します。シスターは医者を呼びに出ていきますが、彼女が医者を連れてくる前に、マルコの手を握りながらアンナは亡くなります。

 その後事情をシスターは、マルコから聞かされるます。そして棺に花を供える時、遺品からアンナの息子マルチェッロは、移民船の中で亡くなっていた事を知ります。アンナは亡くなった自分の息子の姿をマルコの中に見出し、そのマルコに看取られた事で、安らかな最期を迎えられた事を、シスターはマルコにお礼を言います。そしてマルコは、母親を探す旅に戻っていきました。

図2、『グイッ!』と、ふ〜ぼうふら水は美味い!(爆) 比較するとわかりますが、亡くなるのが男か女かは変えてありますが、ほぼ同様のストーリーになっている事が判ります。それ以外では愛国性の有無でしょうか。元々『クオレ』はイタリアの愛国小説という側面があり、戦前の日本では結構読まれていたと聞いた事が有りますが、『母をたずねて三千里』ではその要素を削って有ります。実際このエピソードでも『おとうの看護人』では、見も知らない人に対する、献身的な少年の善行をたたえるというテーマで書かれており、『えらいぞ、ぼうや!』と病院の助手が少年を誉めるシーンがある事から、それを伺う事が出来ます。それに対し三千里では、シスターのマルコに対する感謝の言葉はありますが、『感心な少年マルコ』という視点はありません。

 高畑作品は、その殆どが原作がありますし、またそれに対し忠実に作られます。その忠実性は、原作のストーリーそのままという部分もありますが、もっと大切なところは、作品の精神性を忠実に守るという点でして、そこが多くの映像作家とは違うところと言えます。このエピソードの追加も、高畑作品の忠実性が如実に出ています。

 こう書くと、高畑作品には高畑監督の映像作家としてのオリジナリティは無いように思えますが、矛盾する様ですが、その作品には彼の個性、精神性が溢れています。例えば、原作がしっかりとしている『赤毛のアン』では、もっと良く理解する事が出来ます。この作品でも、いくつかの追加されたエピソードや描写があります。それらは、決して『赤毛のアン』の世界を壊さず、かつ新しい物を付け加える物でも有ります。

図3、ピエトロの診療所のような教会の病院 例えば、原作でアンは大変な優等生となり、エイブリー奨学金を受けるほどにもなりますが、原作では表現されない、机に向かい黙々勉強するアンの姿が描写されています。その苦しそうな姿は、受験勉強を経験している者なら、誰でも共感できる物です。私は原作のアンが優等生になるストーリーには、ちょっと御都合主義的な物を感じ、リアリティーの欠如から余り好きではありませんでしたが、アニメの方は以上の描写で補完されている為、アンの努力の成果がエイブリー奨学金であると、非常に説得力がある展開になっています。作品の精神性を変える事無く、原作に無いシーンを入れる。それが高畑作品の個性の1つでもあるのです。

 さてさて、今回はこれくらいと思ったのですが、具体的なシーンの感想が無いのは少し寂しいので、簡単に書きたいと思います。

 まずは、水売りが良いですね。ボウフラの湧いた水の描写が凄いです、中に浮かぶボウフラ(?)の動きのリアルさが、強烈です(図1)。また、それを当然のように飲む水売りが良い(図2)。でも、当時のアルゼンチンって本当にそうだったんでしょうか?もしそうだとしても、どうやって調べたのかなぁ…謎です。しかし、今でも世界ではああいう水を飲んでいる人達はいるでしょうし、また、今の日本人にあれを飲める人は、果たしているのか非常に疑問です。文明は良い物だと思いますが、人間を弱くしてしまう物だとも感じますなぁ…

 慈善病院の雰囲気が、ピエトロの診療所に似ているのがナイスです。(図3)マルコの台詞で説明されていますが、その説明すら不用に思えます。実際、画面が出た瞬間に、そう思いました。子供に見せる事を前提にしているので、そういった説明を付けたのかもしれませんね。ハイジのナレーションと同じですね。同様に蛇足だと思いました。

図4、寒々とした、霊安室 心理描写で言いますと、医者が出てきて、シスターに向かい首を振る、そしてその病室がアンナのいる部屋でもある、それに衝撃を受けるマルコの表情が良い。マルコの心配する気持ちが、非常に良く伝わってくる。説明せずとも、キャラクターの気持ちがこれだけ伝わるのも、高畑監督の演出力の凄さと言えよう。

 今回登場するシスターは、非常に良い人で好感の持てる人物ですが、ボカの町をヤクザの町と言っているところや、外にあまり出ないからペッピーノ一座についても良く知らないところがリアルです。私の父はとある宗教の熱心な信者で、私も一時期その宗教の学校に行かされたことがありますが、そこには世間の仕事をせずに、宗教一筋の人達もいましたが、当然、このシスター同様、世情に疎い人達でした。しかし、このシスターのように良い人達でもなかったなぁ…(笑)

 霊安室の感じも雰囲気が出ています。棺の中に添える花、遺品、そして寒々とした部屋。花を添え、お祈りをするシスターとマルコも雰囲気出てます(図4)。『寒いわね、さぁ行きましょう』という台詞も、非常に実感出来ます。葬式のシーンで言いますと、『赤毛のアン』でもっと丁寧に描かれますが、同様の雰囲気をこのシーンからは感じます。

図5、へっへっへっ、上玉じゃねぇか、尼にしておくのは勿体ねぇぜ!(爆) さて、今回最大名シーンは、素直に感動のシーンを選ぼうかと…なんかこのコラム、ひねくれたシーンを選んでしまう傾向がありますので。私の性格が、ひねているせいなのでしょうか(笑)。マルチェッロの名を呼びながら、天に召されていく不幸な母親に、自分の母親の姿にだぶらせ涙を流すマルコを選びましょう。不幸な人生の最後に、僅かながらの救いを与えることが出来たマルコに、強く胸を打たれます。後で出てくる、シスターの『あなたは、大変良い事してくれたのよ』という台詞にも、強い実感が湧きます。

 最後の食事のシーン、シスターとの別れのシーンも、捨てがたいんですけどね。お金や服を与えるところに、シスターのマルコに対する好意が伝わってきて、三千里でしばしば見られる、非常に爽やかなシーンです。

それにしても、 このシスターは美人ですなぁ…(図5)声も良いです(池田昌子…メーテルですな)。

©NIPPON ANIMATION CO.,LTD. 1976

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