| 三千里の脚本家である深沢一夫は、高畑監督の監督デビュー作『太陽の王子ホルスの大冒険』でも一緒に仕事をしている事は、当ホームページのお客様は当然御存知でしょう。深沢一夫の人形劇『チキサニの太陽』を原作として、深沢一夫みずから脚本の執筆を行っています。そうした深沢一夫の人形劇の経験が、ペッピーノ一座の描写に生きているのは、当然の事でしょう。特に、バルボーサ牧場での公演のエピソードでは、特に生かされているのだと思います。 本番の描写は次回ですが、今回はシナリオ創作の現場の雰囲気が味わえます。宿の親父にバルボーサ牧場の旦那が、政府にすら影響を持つ大物と聞き、野心家であるペッピーノは、ここがチャンスとより面白い新しい演目の構想に入ります。ここで、フィオリーナとマルコが考えた、シナリオに興味を惹かれます。私も趣味でマンガを書くので、こういった雰囲気は少し判るのですが、ストーリーを思いつくきっかけは、友人と馬鹿話をしている時等、ほんの些細な事である事が多いです。 ここで感じるのは、ペッピーノの野心が情報が余り行き渡らない、この時代だから仕方が無いと言えるのでしょうが、芸人の考え方としては、私にとってあまり好きでは無い考えという事ですね。やはり私は、大衆芸能が好きです。芸術なんぞ糞食らえ、ってなもんです(笑)。バルボーサ牧場に行きたくない為の方便だと思いますが、コンチエッタの台詞の方が共感できますなぁ… 宿に訪れる前夜の晩の観客達、三千里ならではの良い味わいのある素朴さを持った観客達を楽しませるような姿勢が、大衆芸能を作る物の心構えでは無いかと愚考したりもします。しかし、『となりの山田くん』をと作ってしまう、今の高畑監督は失格かなぁ…(笑)観客は、楽しい思いをしたいと思って、お金と時間を使うのですから、説教映画はちょっとねぇ。人様からお金を頂戴して、あまつさえ説教を聞かせようと言う姿勢は、映画監督は大衆芸能の担い手と考えている私からすると、間違っていると考えています。ところで、ちょいと気になったのは、こういう素朴な人達の前で演じた演目は、一体どんな物だったのでしょうか?まさか、いつもの毒いっぱいの物だったのでは、と少し心配したりして(爆)。 さて、冒頭で描写される、フィオリーナとマルコの考えたストーリーですが、フィオリーナの原案は、王子と誘拐されるお妃様が、旅芸人一座と出会い、途中は何が起こるか判らないけれど、最後は幸せになるという無茶苦茶シンプルな物です。ストーリーというより、幸せを求めるフィオリーナの妄想、といった方が正確かもしれません。それに対し、いかにも男の子らしく、怪獣物、活劇物に展開させて、フィオリーナの夢を打ち砕くマルコが、良い感じです。フィオリーナが嫌がっているのも無視し、アメデオと活劇を演じるマルコが、いかにも男の子していてリアルですね。まぁ、結局はフィオリーナが折れて、三十六計逃げるにしかず怪獣となってしまうのが、これまた実に女の子してます。このシーン、実にほのぼのしていて楽しい。特に、舌を出すフィオリーナが、良いですね(図1)。こういう表情は珍しいです。このストーリーを元に、ドラマを発展させていくペッピーノが凄いです。ペッピーノがただのお調子物ではなく、プロである事を印象付けてくれます。フィオリーナとマルコが考えたストーリーに、人形劇一座が登場するのは、疑いも無く自分達をモデルにしているのでしょうが、そこまでやるのなら昔話にするのでは無く、リアリティーを加味しなくては面白く無いと、マルコ本人すら絡め、よりドラマチックに発想をしていくところも良いですし、バイアブランカへの汽車を見て、思わず馬車からおり、痛恨の表情で見送るマルコを見て、渋い人生訓を語りながら(ここはBGMも良し)、その姿からよりドラマチックな展開にへと、イメージを広げていくペッピーノは、なかなかのカッコ良さを持っていると言えるでしょう。 この、面白くするなら手段を選ばないペッピーノに比べ、自分の妄想の発展形に過ぎない、フィオリーナのヌルイ展開のストーリとは、面白さに大きな差があります。バイアブランカについても母親がいない、という悲劇的展開に比べ、母親と会い、家族や旅芸人一座の事を話して、皆で一緒にジェノバに帰る、という楽観的展開では、ペッピーノの言う『バケツに3杯』は、実現出来ないでしょう。もっとも、高畑監督でしたら、むしろドラマチックな展開が無い、フィオリーナ案を採用して、演出力で幸せを噛み締められるような、しみじみとした心に残る物に仕上げるかもしれません。でもそうなると、ストーリーがつまらんと、レイアウター宮崎駿が、机をひっくり返すかもしれませんけどね(笑)。 ところで、このシナリオを煮詰めていくシーンは、馬車上でのシーンなのですが、馬車が常に細かく揺れているのが、凄いですね。撮影も、今のデジタルならいざ知らず、面倒だったに違いなかっただろうと思います。 取り敢えず、ある程度形になったストーリを元に、ペッピーノ一座は稽古を始めますが、人形劇なのに実際に演技するのが興味深いです。アニメの声優も、演技のトレーニングは、例え声優という声だけの演技をする特殊な役者であっても、身体も使った演技のトレーニングをするそうです。演技の基本は、身体を使った物であるという事は、恐らく人形劇も同じなのでしょうね。 この時点でも、シナリオは完全に完成しているわけではなく、稽古の重ねながら、シナリオを固めていく過程が、描かれています。少しずつ人形劇芝居の完成品が、作られていくさまが、非常に興味深く楽しめます。物作りの楽しさが伝わってきますね。レベルは全然違うのでしょうけれど、私が友人達とゴチャゴチャやりながら同人誌を作るのと、似ていると思ったりもします。さて、この稽古のシーンですが、人形劇芝居の制作の行程という視点もありますが、それよりもフィオリーナの想いが爆発する、感動の名シーンという視点のほうが、観客にとって重要でしょう。マルコに同化して、迫真の演技を繰り広げるフィオリーナと、それに見入り自身の境遇と、またフィオリーナの境遇にも想いをはせ、痛みを感じるマルコ。2人の気持ちが、怒涛のように観客に押し寄せてくる、名シーンと言えるでしょう。先ほどのバイアブランカ行きの列車のシーンもそうなのですが、このシーンもマルコの痛みが感じられるシーンです。不幸な展開が多い三千里ですが、今のペッピーノ一座と旅をしている間は、不幸な影は比較的潜んでいて、楽しげな展開で観ていて楽な期間ではあります。しかし、こういう風にマルコが背負っている物の重さが、無くなった訳ではありません。この硬派な重厚さが、やはり高畑作品の魅力と言えるでしょう。 ただし、今回最大の名シーンと言えば、フィオリーナがマルコへ自分の思いを託す、ラストシーンであると、言わざるを得ないでしょう。マルコは母親に会えない苦しみは、自分だけではない事をフィオリーナに詫びます。しかし、フィオリーナはそれを咎める気はありません。大平原の満点の星空の下、切々と自分の想いをフィオリーナは語ります(図2)。お母さんに会えない自分、お父さんに会えないエミリオ、その悲しさがあるからこそ、2人はマルコにその想いをたくしている事を。画面の美しさ、フィオリーナの強い想い、そして十分に取られた間を取った演出が、このシーンを素晴らしい名シーンにしています。この会話の雰囲気は、『おもひでぽろぽろ』の阿部くんのエピソードを思い出しますね、2人の考え方感じ方にずれがあり、会話を重ねていきながら、お互いのずれがシンクロしていく。その過程の中で、少しずつお互いの魂が共感していく。非常に地味なシーンで、ましてや動きが魅力のアニメーションでそれをやるのは、実写以上に地味になってしまいます。しかし、心が画面に見える、こういうシーンこそが、高畑勲なのだと強く思います。 こうして、爽やかな終わりを迎えますが、晴れやかな気持ちを感じる2人とは裏腹に、バルボーサ牧場に向かう未来に、漠然とした不安を感じるコンチエッタのシーンが最後に入っているのが、更なる深みをこのシーンに与えていますね(図3)。 それはそうと、芝居の稽古を優先させる為、雑用を引き受けるマルコの労働描写が相変わらずの良いですね。これも高畑監督ならではの味わいでしょう。馬を引き、ジュリエッタを寝かしつけ、夕食を作る。高畑監督は、色々な意味で傑出した監督だと思いますが、労働描写においては、圧倒的な実力を誇っていると言っても、決して過言では無いでしょう。火の暖かさも、良い感じでした(図4)。 |
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