| 11月21日夜、高円宮憲仁親王殿下が薨去されました。一国民として、一サッカーファンとして、日本サッカー界に尽力された殿下に対し、謹んで心から哀悼の意を表したいと思います。 当コラムを読んでくださっている方は、三千里が回を追う毎に、視聴率的な苦戦を強いられていった事は、御存知かと思います。気持ち良く泣ける悲劇ドラマとは違う、観る者に痛みを感じさせる内容だからこそなのですが、今回はそれの象徴的な回と言えるでしょう。 まずは、冒頭で深沢一夫流(と思われる)リアリズムを見せ付けられます。折角の塩鉱山の鉱夫達の月給日にも関わらず、ペッピーノ達はマルコの為を思い、一緒にモレッティ議員を訪ねようとします。しかし、警戒心の強い宿の女主人が前払いを要求してきた為、予定を変更して働かざるを得なくなります。結果から言えば、給料日を逃さずに済んだので、むしろラッキーだった訳なのですが、そのせいで、モレッティ邸にはマルコ1人で行かなくてはいけなくなります。 このシナリオ展開は、モレッティ邸でマルコを待つ悲劇を、より悲劇性の強いシーンにする目的がメインなのでしょうが、働かなくては食っていけないという、世の中の厳しさの表現でもあります。第22話のコラムで、スリにお金を取られっぱなしのマルコのシナリオが、深沢一夫のリアリズムである事を書きましたが、この展開もその一つなのでしょう。さて、マルコは宿の女主人に、ラパス通りの場所を聞いて、悲劇の待つモレッティ邸へ向かいます。ところで、この時マルコにラパス通りを教える、宿の女主人ですが、結構つっけんどんなんだけど、何となく悪い人ではなさそうな雰囲気が垣間見えるのが、嬉しいですね。『用があるなら一度にさっさと言っとくれ、あたしは暇じゃないんでね』と、後でいかにも暇そうにあくびをするくせにキツイ口調で言いますが、マルコの質問に結構真剣に聞いてくれたりするところから、そんな性格が伺えます。第22話で登場した、メレリが住んでいた家に住んでいた、中年女性と少し印象が似てますね。 貧民街から歩いて30分もある(ここら辺はロケハンの成果でしょう)、富裕層が住むラパス通りのモレッティ邸に着くマルコですが、モレッティ邸でのやりとりがまず名シーンです。ここで登場するモレッティ、オヤジアニメ三千里らしさ溢れる、実に渋いキャラです(図1)。厳しい眼差しが、議員というハードな仕事をしている雰囲気を醸し出しているのも魅力ですが、非常に物事をロジカルに捉えている、冷静な性格が見て取れるのも魅力です。 ここでマルコは、色々と絶望的な話しを聞かされます。さすがにアンナの死の可能性については、モレッティが軽率だったと言えますが、それ以外の話しは実に納得がいく話しです。そしてこのシーンのハイライトは、フランチェスコ・メレリの事を、何も知らないマルコです。仕事に失敗して逃げて来た以上は、偽名を使うのが当たり前。偽名を使っているのであれば、容姿が判らなければ探し様が無い。ところが、マルコはメレリの事を、名前しか知らなかったのです。一つ一つ、人を探すのであれば当然の事を聞くモレッティ。しかしマルコは、その全ての質問に『判りません』と首を振る以外何も出来ません。矢継ぎ早に出されるモレッティの質問に対してマルコが首を振り続けるマルコ。その度にマルコの悲しみが溢れ出ます。最後に、手の施し様が無いとペンを置いてしまうモレッティに(図2)、マルコの悲しみは爆発し(図3)、観る者の心をしめつけるのです。このシーンでは、勿論このマルコの悲しみが心を打ちますが、そんなマルコを見ながらも、あくまで理性的な態度を取り続けるモレッティも、このシーンの魅力の1つでしょう。 そんな悲劇をマルコが味わっている間、酒場で働いているペッピーノ一座ですが、出し物の長いバンクが、ちょっと悲しいですね。ここでも、ストレートなバンクの使い方で、以前に使われた全く同じシーンをひたすら流すだけです。もっとも、ビデオが当たり前の現在と違って、TV放送だけでしたら、そんなに目立たないのかもしれません。 そんなペッピーノ一座のシーンですが、舞台裏のシーンがあり、それが良い雰囲気を醸し出しているのは、結構嬉しいです。このカットから類推すると、コンチエッタの仕草から、彼女が長手袋を身に付けた直後と思われます(図4)。フィオリーナの骸骨人形は、あまり時間が長くありません。ですからコンチエッタは、人形芝居の最中でも、その後の歌と踊りの為、既にステージ衣装を着ていると思われます。ただ、長手袋と帽子だけは、人形芝居の邪魔になるので外しているのでしょう。そして、帽子をかぶってリボンを顎に結びますが、こういうアニメイトは、結構面倒くさいと思うので、それがしっかりされているのが、またまた嬉しいですね(図5)。結ぶ描写で思い出すのが『火垂るの墓』で、空襲にあった清太が、節子を背負う為に紐を結ぶ演技と、玄関での靴紐を結ぶ演技でして、非常に細かくしっかりと紐を結んでいたのが印象的でした。このシーンと共通する物があり、高畑監督の描写の丁寧さを感じますね。 さてさて、このサイト恒例の嫌な比較です(笑)。ガイナックス制作『王立宇宙軍』で、電気を止められたリイクニの家に、シロツグがバイクで訪れるシーンがありますが、シロツグの来訪に、ベルトの替わりにと、リイクニが腰に紐を結ぶシーンがありますが、このシーンの紐を結ぶアニメイトは、手を後ろに回して、チョイチョイと動かしているだけです。『火垂るの墓』は『王立宇宙軍』の翌年の作品でして、これは偶然だと思いますが、この2つの映画は、比較できるポイントが案外あります。監督の山賀博之は、描きたかったのは現実だとインタビューで答えてましたが、現実の描写力という点においては、高畑監督に一日の長がある、というのが私の感想です。 うわぁ、我ながら嫌な比較だなぁ(笑)。ちょっとフォローと入れておきますが、私は『王立宇宙軍』という映画は好きです。発売当時にLDも買って、今でも持ってます。ただ、定価9800円もするDVDを買いなおすほど好きではありませんが(笑)。う〜ん、あんまりフォローになっていないような気が(汗)。話しを戻しますが、人形芝居が終わって、歌と踊りに入るペッピーノ一座ですが、幕が開いて、ツンと顎を上げ観客の前に登場するコンチエッタが良いです(図6)。幕が開く前と後の、表情のギャップが激しく、いかにもスイッチが入ったという感じがあり、夢を売る仕事という雰囲気が良く出てますね。そんなコンチエッタの後を、普段通りにトボトボと追うフィオリーナの姿に、まだまだエンターテイメントの仕事を理解して無い感じがあり、これまた良いですな。と言いますか、旅の間は結構時間があったんでしょうから、少しは仕込よ(笑)。 ところで、コンチエッタだけステージ衣装があるのは何故なのかな。フィオリーナは、ステージでも普段着で、ペッピーノは普段でもステージ衣装です。それなのにコンチエッタは、普段着に加えステージ衣装が、踊り娘衣装とガリバルディ提督の衣装、2つも設定されています。ステージに立たないジュリエッタが、来たきり雀なのは構わないと思いますが、やはり旅芸人一座という設定なのですから、ペッピーノの普段着とフィオリーナのステージ衣装は、コンチエッタ同様別にデザインしていた方が良かった思います。 特にペッピーノの普段着が無いのは、画面的にも不自然に感じる事がありますので、結構重要だったのではないかと思います。ただ、演出的自然さを考えるとペッピーノの普段着の方が必要性があるのでしょうが、フィオリーナタンハァハァで言えば、フィオリーナのステージ衣装の方が大事ですね(藁。可愛らしい衣装を着て、操り人形をするフィオリーナタンにハァハァしたかったのは、決して漏れだけでは無いでしょう(藁藁。興行も成功してご機嫌になって帰ってくるペッピーノですが、そこには自暴自棄になり、イタリアに帰ると言うマルコが待っています。ここで、厳しい態度でたしなめるペッピーノがなかなか格好良さです。すっかり泥酔して足元もおぼつかなくなっていたのに、マルコのところに駆けつけた時には、足もしゃんとしてろれつも回る様になっているのが良いですね。厳しく大人の態度でたしなめるペッピーノ。しかし、アンナが死んでいるかもしれない恐怖に脅えるマルコには、その説教は心に届きません。そして、ある意味三千里屈指の名台詞の1つを、吐き出します。 『僕は何かに呪われているんだ!』 そして、突っ伏して号泣してしまいますが、ここでの演技が実に高畑監督らしいです。決して観客の耳障りが良いとは言えない、むしろ神経を逆なでする、悲鳴のような声です。それが観客の心に強く迫ります。勿論、気持ち良く泣けるというような、心地良い物ではありません。これが視聴率下降原因でもあり、私が高畑作品が好きな理由でもあります。勿論、今回最大の名シーンは、このシーンですね。ところで、マルコの心の叫びはさておき、冒頭でのペッピーノの台詞は、スタッフの心の叫びを代弁した物だったのでは無いでしょうか(笑)。 『アルゼンチンって国はどこいっても同じような四角い家ばっかりだ』 『冗談言うな、原っぱなんてもうこりごりだ』 三千里のロケハンは、マルコの旅とは逆で、アルゼンチンからイタリアへ向かってますが、高畑監督はインタビューで、ジェノバの非常に絵になる風景に、安心した事を語っています。アルゼンチンの平面的な街並よりは、ジェノバの立体的な街並みの方が、良い画面を作りやすかったのでしょう。それが、あの台詞に出ていたのでは無いでしょうか(笑)。 |
©NIPPON ANIMATION CO.,LTD. 1976