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第42話第44話

第43話『この街のどこかに』

図1、盲目の紳士の手を引くマルコ 三千里では、実に味わいキャラクターでありながら、あっという間に使い捨てられてしまうという、勿体無いと言うか豪勢と言うか、というキャラクターがいますが、今回ではその典型を見る事が出来ます。当然そのキャラクターは、マルコが不動産事務所を出たところで出会う、盲目の紳士でして、このキャラクター自体の味わいと、マルコとのやりとりは、素晴らしいものがあると言えるでしょう(図1)。そして、2人がパン屋の前で別れる際に、『またどこか出会えるだろう』という台詞がある事と、この盲目の紳士が、非常に存在感のあるキャラクターである事から、重要な場面での再登場を、観客としては当然考えるのですが、何とこのキャラクターは使い捨て、2度と画面に登場することはありません。

 この盲目の紳士は、わざわざ手を引いてサルミエント通りまで送ってくれたマルコに、お礼として心付けを渡しますが、このお金でマルコはフアナへのお土産に飴玉を買います。飴を買ってきた時のフアナの反応は、今回の見所なのですが、要はそのシーンを作る為、マルコに飴を買うお金を持たせる為、それだけの為にこの盲目の紳士は登場しているのです。確かに、貧乏なインディオの少年の家に世話になっているという境遇のマルコが飴を買うには、何らかしらお金を手に入れる描写がなければ、不自然になるのは間違いないのですが、その為だけにこれだけのキャラを用意するのは、本当に凄い話しです。友人に聞いた話しなので、確認はとれないのですが、深沢一夫が書く三千里のシナリオには、劇中に名前が出てこないキャラクターの名前すらも、書いてあったそうです。黒沢明の映画では、セットの机の引出しに鋏が入っていた、というエピソードがありますが、これと似たエピソードと言えますね。これが事実だとすると、当然この盲目の紳士の名前も、脚本には書いてあったのでしょう。

 また、マルコの親切が、不動産事務所で聞いた朗報が影響しているのが判るのも凄い。マルコは基本的には良い子ですが、残念ながら気分にかなりムラがあります、人にぶつかってしまうのは、第40話『かがやくイタリアの星一つ』で、乞食に間違われた時も同じですが、その時と今回ではその後の対応が全く違います。わざわざ不動産事務所に戻って道を聞き、更にはサルミエント通りまで手を引いてあげる、その親切な行為には、アンナに会える手掛かりを掴めた事が、マルコを優しい気持ちにさせている事が、観客には読み取ることが出来ます。

図2、飴玉、綺麗です アンナの手掛かり→盲目の紳士への親切→心付け→飴玉購入、と全ての行動の理由が、前に示されていて、まるで『わらしべ長者』のように繋がっています。そして、飴玉購入からは、今回の見所である、フアナへのお土産にと繋がりますが、ここでのフアナは、本当に素晴らしい。まずは、マルコが買ってきた飴玉の粒の大きさが良いです。子供から見れば、飴玉は当然大粒の方が嬉しいですし、その大きさが、フアナの喜びを示す演出の1つとなっています。そして、3つの飴玉は、フアナ、アメデオ、チキチータ、のお土産なのですが、チキチータの分もマルコが買ってきているのは、冒頭のチキチータを捨ててしまった、マルコの罪滅ぼしの意味合いがあるのが素晴らしい。ここも『わらしべ長者』的な繋がりと言えますね。冒頭でマルコが自分が捨てた物が、フアナの大切なチキチータである事に気づいて、さらりと謝っているシーンが、伏線として非常に良く効いてますね。

 飴で楽しむフアナもまた素晴らしく、直ぐには口に入れず、日にかざしたり嬉しそうにひとしきり踊って、喜びを表すフアナが実に可愛い。特に、日にかざされた飴玉の色合いは、実に美しいです(図2)。飴玉を口に入れて、転がすフアナも非常に魅力的な表情を見せ(図3)、この飴玉のシーンでのフアナは、シリーズ全体を通したフアナが登場するシーンでは、一番魅力的なシーンと言えるでしょう。余談ですが、この飴玉は実に美味そうでしたね。『火垂るの墓』のサクマ式ドロップに通じる物があります。

図3、飴玉を舐める表情の、可愛らしさ シナリオの作りだけではなく、演出的描写的にも、見所はあります。まず目を引かれたのは、パブロの職場ですね。見る限りでは、パブロは煉瓦造りの仕事をやっているようですが、どういう仕事をやっているかを、キッチリ示しているのが、人間の労働を大切に思う高畑流と言えるでしょう。足で粘土を練る描写。粘土を型に入れる描写(図4)。出来上がった煉瓦を積み上げる描写。煉瓦造りの過程が一通り簡単に紹介されていて、三千里らしさを楽しむ事が出来ますね。

 心理描写的には、釣りに誘うがついてこないマルコに対するパブロの『居場所も知らせないようなお袋なんてもういい加減にほっとけよ』という台詞に反応するマルコでしょうか。心無いともいえるパブロの台詞に、マルコは鋭く反応しますが。この時のマルコの感情が、実に良く伝わってきます。非常に判りやすいですね。心理描写を大切にする事と、非常にシンプルで凝ってない事が、これまた高畑流と言えるでしょう。心理描写というと、結構複雑な物がそれと考えられがちだと思いますが、高畑監督の”ベタ”とも言える、非常にシンプルな感情を、ストレートに表現するやり方。ちょっと考えると、芸がないと言う事も出来なくは無いですが、しかしそのシンプルなやり方が上げている演出効果を考えますと、心理描写とはそれほど大袈裟に考える物ではないようにも感じます。もっとも、高畑監督のように徹底的にやっているからこそ生まれてくる効果なのでしょうが。

図4、煉瓦作り、労働の描写が気持ちいい しかし、今回のストーリには直接繋がりの無い描写、という意味では、パブロのケーナに注目したいですね。音楽好きの高畑監督にとって、当然思い入れが強いシーンである事は、容易に想像できます。実際、フロンズ社『月刊アニメーション』1980年4月15日号初出の、『逃した魚は大きかったか?「母を訪ねて三千里」再編集顛末記』に、『それに、仕方がないとはいえ、唄が減ってしまう。あんなに愛したトニオのギターが、ペッピーノたちの踊りが、出し物が、パブロのケーナが……ああ。』と書いてある事からも、裏付けがも出来るでしょう。

 いわゆる、一般的に言われるフォルクローレの典型でして、駅前でのストリートミュージシャンが、こういう音楽を時々やってますね。ロバでメキーネス邸に向かうシーンでのこの音楽は、風景の描写も含めてアルゼンチンの雰囲気満点で、南米文化贔屓の私としては、非常に楽しめます。ところで、世界名作劇場といえば、ほとんどがヨーロッパが舞台です。ヨーロッパといえば、『おジャ魔女どれみ』の後番『明日のナージャ』が100年くらい前のイギリスですが、作品の良し悪しはさておき、どうもあのヨーロッパの雰囲気には、私はそれほど食指が動きません。私は好きなTVアニメを聞かれたら、ハイジ、三千里、アン、と答えます。こう答えると、世界名作劇場シリーズが好きなのだと、勘違いされる事もありますが、実は、子供の頃に観た物はさておき、アニメファンとして高畑作品以外の世界名作劇場は観た事がありません。私が高畑作品以外の世界名作劇場を観ないもの、このヨーロッパ的味わいに、殆ど興味が無いのが原因なのでしょう。

 ところで、高畑監督も思い入れがあるという、パブロのケーナですが、ちょっと残念な部分もあります。カルロスのギターの運指にあれだけ力を入れたのだから、より簡単なケーナの運指を、もう少しがんばっても良かったのではないかと、ちょっと思いますね。贅沢かな(笑)。

 さて、今回最大の名シーンですが、飴玉を喜ぶフアナしか無いでしょう。このシーンでのフアナは実に可愛いですし、今回でこれが描かれているからこそ、次回の瀕死の状態になってしまうフアナに対して、強い感情移入を観客は出来るのだと思います。

©NIPPON ANIMATION CO.,LTD. 1976

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