| 前回は、あまりにも原作通りに作られていたため、連載の目的である、アニメと原作の違いから高畑監督の作家性を探る、というアイデンティティが崩壊の危機にあると書きましたが、今回はあまりの違いすぎて、逆の意味でアイデンティティクライシスの危機にあります(笑)。嵐に傷ついた小鳥(金翅雀)を世話をする話しですが、この小鳥、原作には影も形もありません。つまりは、アニメオリジナルのストーリー。これですと、”全部違います、以上”で終わってしまって、逆に書きにくいですね(笑)。 でもまぁ、気を取り直して…元々、原作のハイジは、前回の初めてハイジが山を登るエピソードの次が、ペーターの祖母の話になっており、しかもその次にはデーテがやってきて、ハイジをフランクフルトに連れて行ってしまいます。しかしアニメでは、今回のハイジが育てる小鳥のエピソードや、つぶされそうになるユキのエピソードなど、たくさんの話しが用意されています。ペーターの祖母のエピソードが、今回より6話先の第10話、デーテがハイジを連れて行くエピソードがさらにずっと後の第17話と18話ですから、いかに原作に比べて、アルムでの生活の描写が多いかが判ります。 原作では、この作品は2部構成になっています。第1部は『一人前になるまで』第2部は『勉強が役に立つとき』とそれぞれ副題が付けられていまして、第1部は、ハイジがフランクフルトから帰ってきて、ハイジが説く神の教えにアルムおんじが改心し、山を降りてくるまでが描かれています。そして第2部は、副題からも判るとおり、都会で教育を受けてきたハイジの、アルムの山で示す成果が描かれているのです。しかしアニメは方は、フランクフルトに行く前の描写がたっぷりと描かれている事からも判るとおり、アルムの山編(その1)、フランクフルト編、アルムの山編(その2)、と3部構成と言った方が適当でしょう。 この構成から考えられるのは、原作者のスピリがアルムの生活について、描写に思い入れが無かったとは言いませんが、アニメの方がより重要視しているのは間違いないでしょう。ハイジが受けた教育については、逆になります。原作の第2部とアニメのハイジが山に戻ってきてからは、ストーリー的には同じ部分になりますが、アニメの方もハイジの教育を軽視している訳ではないのですが、アニメの方は原作に付いている『勉強が役に立つとき』はあまり適当とは言えません。つまりアルムの生活に関しては、原作<アニメ。ハイジが受けた教育については、原作>アニメ、と言う事が出来ます。今回からフランクフルト編までで、原作に無い話しが追加されていると言う事が、原作とアニメの違いで最も重要な部分と言えるのかもしれません。そして、これらのエピソードがまたまた、面白くて魅力的なんですよね。さて、原作との違いはこの辺で、今回のエピソードを見ていきたいと思います。まずは山の嵐の描写です。今まで晴れ上がっていた天気が、急に変わってあっという間に嵐になるのですが、のどかな音楽が切れて、急に強風が吹き、雲が増え辺りた暗くなっていきます。そして、二人が岩棚に避難するまもなく、嵐に突入していくのですが、ここの急転直下に畳みかける描写ももちろん素晴らしいのですが、それ以前の晴れて穏やかな天気の時の雲の描写がさらに素晴らしいです。 いえ、それほど画期的な映像描写がされているわけではありません。ただ、異常に低い雲が描かれているだけです。雲の高さは、ハイジやペーターの頭より、頭1つ分くらいの高さを、雲にしては非常に速い速度で、右から左へと流れていきます(図1)。画面的にはただこれだけです。しかし、雲というのは、当然一般的には、遙か上空にあるわけですから、この画面には非常に強い非日常性がありまして、強い違和感を観客に与えます。そして、このシーンではハイジとペーターが、ほのぼのとした(腹ぺこペーター)会話を繰り広げ、音楽もまたその会話内容とあった物ですから、異常に低い雲が無ければ、ただのほのぼのシーンでしかありません。この後の嵐のシーンも、確かに迫力があるのですが、嵐の前の不気味さが描かれているこのシーンの方が、独特の迫力がありより素晴らしいと思います。この絵的なイメージを作ったのは、レイアウトの宮崎駿の手による物だと思われますが、見事ですね。ちなみに、この嵐のシーンは、ハイジの尻に敷かれっぱなしのペーターが、男らしいところを見せるシーンでもありますが、怯えるハイジを抱いてあげるペーターが実に良いです。時々見せるこれが、またペーターの魅力ですね(図2)。 さて、嵐が過ぎ去った後に、これから数話にわたってハイジが育てる小鳥のピッチーを拾いますが、このピッチーの描写については、高畑節がうなります。ちょっと資料がどこにあったか忘れてしまって確認できませんでしたが、以前高畑監督はインタビューで、脚本家が小鳥を育てるエピソード等を作ってくる事を、やや否定的なニュアンスで語っていました。何故否定的なのかと言いますと、小鳥を育てるなんて、そんな容易に出来る物ではないからです。これは明らかになっているわけではありませんが、作品の内容、スタッフのインタビューなどから、ハイジにおける脚本や絵コンテは、高畑監督を中心とするメインスタッフ以外の人たちがクレジットされていますが、どうやらそれらは叩き台にされているようです。恐らく、脚本家や絵コンテマンの個性や作家性は、原型をとどめてないと思われます。本来ならば、脚本は三千里のように信頼する脚本家一人に任せ、絵コンテは全て自分で切りたいのだと思いますが、スケジュールに余裕がある劇場作品と違い、殺人的スケジュールのTVアニメ。しかもそのTVアニメの中でも、『アルプスの少女ハイジ』なのですから、もう人智を越えた世界なのでしょう(笑)。スタジオジブリの色設計で活躍する保田道代の事を書いた、柴田育子著『アニメーションの色職人』でも、その大変さは語られています。 ですから、ハイジにおける脚本と絵コンテは、ストーリーや映画の設計図を書いてもらうという、本来の役割ではなく、作業軽減の為の物でしか無かったのでしょう。しかし絵コンテマンが凄い。ガンダムの富野由悠季(当時、富野喜幸)ですよ。これほどの人をただの便利屋に使っているのですから、恐ろしい話しです。社会人になる前は私も、こういう事に別に何も感じませんでしたが、今だとちょっとつらい話しだなぁ、と思いますよね。まぁ、業界が違うとそれぞれローカルな常識があるのでしょうが、こういう事が行われる業界は、ちょっと首を捻ってしまいます。やはり特異な業界なのだと思います。しかし、こういう事がありながらも、富野監督は高畑監督の事を尊敬しているらしく、自著の『だから、僕は…』でも、ハイジでの仕事について以下のように書いています。 高畑監督こそいわゆる演出家。その考え方、発想と、賀として表現する方法を、具体的なセオリーと感性にのっていかに実現するか、ということを教えてもらった。話しがずれました。そんな高畑監督が小鳥を育てるエピソードを作るのですから、怪我した小鳥を優しいハイジが育てる、それだけの内容になるはずがありません。ひな鳥を育てるのは、小学生の同級生がジュウシマツを飼っていたので、その話しを聞くだけでもかなり大変です。しかもアルムおんじは生き餌を与えろと言います。で、この回の残り、ハイジはひたすら虫を追いかける事になります(図3、4)。非常に現実的で、夢が無い展開と言えましょう(笑)。しかし、ハイジのチーズが有名になるくらいこの作品には力がありますから、夢のある話しだと、小鳥を飼いたいという子供がたくさん出来たでしょうから、親御さんにとっては良かったのかもしれませんね(笑)。 生き物を育てる面倒臭さの描写は他にもあり、ペーターと山に行けなくなるのもまた、ロジカルにリアルさを追う、高畑監督らしいと言える物でしょう。その事でペーターと喧嘩になってしまうのも(図5)、またリアルです。ペットを飼う事の大変さが、アニメでこれだけ描かれるのは、非常にまれな事ですし、ペットブームの今だからこそ、こういう作品が登場するべきだと思います。シベリアンハスキーの野良犬や獣医学部の解剖犬がいる、今の日本の状況は、正気の沙汰とは思えません。犬は、雑種の捨て犬が拾われて、引き取り手もいなかったので、仕方なく実家で飼っていますが、今でも土曜日の朝の散歩は、私の当番になっています。今はサラ金のCMの影響でチワワが人気らしいですが、ブームが去った時の事を思うと、非常に胸が痛みます。ところで、今回は高畑作品では非常に珍しいシーンがありますね。ストーリー的には今回のハイライトとなる、ピッチーを助けるヨーゼフですが、このシーンがスローモーションになっています。時間と空間を連続させる高畑監督の演出法から考えると、滅多にあるシーンではありません。 |
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